自動筆記シリーズⅣ

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たぶん4回目くらいだと思う。久々にやってみます。

 

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これは同じ道、いや犬、そうじゃない、意味じゃないか?前もほら茶色ばっかりだ、まったく。これはケチ。六人の馬糞が赤い汁を広げるので草履の底が濡れるのだ。尻をからげたナメクジが五匹そろって西へずらかる。ずらかれ、ずらかれ。お前の顔などもう見たくない。ずらかれ、ずらかれ。ほら、水色のなかに虹の膜がゆれるじゃないか、網で掬え。急いで掬え。ごきげんなゲジゲジはトンネルの天井に張り付いて、そいつが来るのを待っている。遠くの方で黄土色の水音がするだろう。ずらかれ、ずらかれ。どうせもういないだろう。こんなところに来るやつなざ。しばらくどこかへ出かければ雨が降るかもしれない、そうだ、洗濯ものを裏のおばさんにあずけたらカビが付くだろう?逃げた七面鳥の赤い尻に少し糞が付いていた。あんなもの食べられない。どうだどうだ、生臭はいけるだろう。沈んだ小鳥は重石をはずして浮き上がる。そうだ、いけるだろう?いやま、さあ、信じられるものか、信じられぬものか?いやさ、信じられるも可、信じられぬのも可。どうだ。どうさ。

Vodafone(.de)の解約手続きあれこれ

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vodafone.deへの問い合わせ

メール:

ショップスタンプ取得は不可能。どうすればよいか。→返事待ち

 

電話:

解約には顧客PINが必要だが知らない。先方は契約時に渡しているはずだと言うが受け取っていない。

 

 

解約前に引っ越すのが悪いんですけどね、、。どんな反応が返ってくるかわからないところにアプローチするのがこわい。(特に楽しい事じゃない場合。)

7月雑感

  • 7月は飛ぶように過ぎてった。去年とは大違いで今年の夏は忙しい。これまでは一日の予定がせいぜい2本立てだったところが最近は3~4本立てに増えた。増えたものの今まで全部記憶に留めていられたことが、予定が増えて以来いろいろ気付かないうちに忘れてしまっている。(日記やメモを書くことは大したことないようでけっこう重要な作業だ。)雨が毎日ボタボタと降り続いていたのはいつのことだったか。台風ですこしざわっとしたのはいつのことだったか。

 

  • 色んな事があった。移動に伴って必要なものをネットで買い込んだためその度にポストに不在票が入って面倒だった。だれか留守番しててくれたら楽だろうな。

 

  • 9月、早ければ8月にどこか歌いに出ます。

 

 

 

 

 

 

 

メモ Tagesnotiz des 25.Juli 2015

  • 世の中人が多い

 

  • Amazon.ukの商品がちゃんと届くのか心配だ。(すでに一週間、予定日から遅れている。)
  • 心配しだすと胸がしめつけられて痛い。すぐ深刻なっちゃうかわいい私のマジメな心臓ちゃん

 

  • 花火大会と夏フェスの季節
  • 連絡を断ってしまったx
  • 社長の選曲はいい。(全部王道だけど。@土曜25:00) 
  • Ich werde wieder dabei. 待ってろよ~~~ 

テクノとクラシックの相性


Jeff Mills & Montpelier Philharmonic Orchestra - The ...

Jeff Mills & Montpelier Philharmonic Orchestra - The Bells

 

こういう試みすごい面白いと思うのに、これの時だけは抑揚ない大根みたいなオケ聞きたくなる。生演奏の持つ微妙な揺らぎ(クラシックの良さ)がじゃまで、音圧は物足りない。…でもたまに良い瞬間もある。

Poesie des 4.Mai

今日は人生で一番すてきな日

私の人生サイアク

彼からは連絡ないし

わたしは連絡すべきところにする勇気がない

期日は刻々と迫って

わたしは連絡すべきところにする勇気がない

私の人生サイアク

五月の緑がまばゆく光って

私の人生サイアク

調べ物シリーズ(マルクス・クッター)

マルクス・クッター>

http://www.markuskutter.ch/index.htm

マルクス・クッター(1925-2005)はスイスの文筆家・政治運動家。

・・・L.ベリオのSequenza IIIに彼のテキストが使用されている。

 

 

 

 

僕の瞑想

 君はなぜか僕におびえている。君が僕を見る時の微かなビクつきを見逃したりしない。もう手放してもいい頃だろ。君の手には負えない。君の手は小さく、僕は大きすぎた。君じゃ手に負えないんだよ。

 

 僕のいない間に君はいつのまにか素直さと社会性を身につけた。君を育てた誰か(何か)に感謝の念、君自身がまだ自分で伸びゆく勇気を持ち続けていることに対する特別な感慨。

君のことを見ていたいと思ったけど、君にとってそれがどうしても僕である必要はない。君はまだそのことに気づいていない。”ここ”では「君に親和する誰か」が君をやさしく見ていさえすればいい。(公園のベンチに座って子供を見守るお母さんだ。)

君の求めに応じて来てみたけど、ここは(自分の意思だけで留まるには)あまりにも淋しい場所だ。僕は君のお母さんじゃない。

 

 

 一旦決めたら行動は早いきみの、意外にも気長で暢気なところが君に運をもたらしている。僕はそれを知っているから君のやわらかい、しずかな呼吸に耳を澄ませる。僕が、自分がそんなことをしていたのを忘れた頃、夏がまた来るだろう。

 

Jeder kann sich selber helfen, oder?

 ひとに連絡するのが億劫。(全部で10件くらい。)でもやらなければいけない。私はいつも残される側だった。でも今回は行く側だった。こういう時に連絡するのはむずかしいけれど、連絡することは大事なことだと思うから。だから…。

母といると腹が立ってくる理由(考察:親と宗教とわたし)

 母といると無性に腹が立ってくることがある。具体的にいえば、仏壇の前に座って題目を一緒にあげている時なんだけど。私の両親は仏教徒だ。私は生まれた時に入信させられてはいるものの自分が仏教徒であるという意識はなく、キリスト教圏の音楽をやっていることもあり心情的にはクリスチャン寄りの無宗教だ。

ときどき母に頼まれて仏壇に向かっていっしょに勤行を上げることがある。隣で勤行をする母は嬉しそうで、とても感慨深げな様子が伝わってくる。自分の子供が自分の信ずる宗教をいっしょにやっているということが嬉しいのだと思う。だが正直、母がそこまで信仰に想いを深めるようになった理由が分からないので気持ち悪い。(母には悪いのだが。)母のそのような物語に私は関係ないはずだ。母の隣で勤行を上げている時、自動的に私は母の物語の登場人物にさせられてしまう。自分のコンテキストとは関係なしに。私は弱く、母の影響力は強い。

どうして私自身を見てくれないんだろう。どうして自分のファンタジー(と、私は思ってしまう。)にすぐのめり込むんだろう。もう少し注意深く周りを見て聞いて感じれば見えるのに。立脚点がゆがんでいる。(認知の歪み、現実認識の歪み。それは私達親子の共通点だ。私はそれを破って外に出る。)

だから私は居てもたってもいられず、数珠を床に叩きつけて部屋を出ていきたい衝動に駆られる。これは怒りという形をとって現れる。一刻も早くこの場を立ち去りたい。自分の世界を浸食から守るために。私は弱く、母の影響力は強い。

行きたい所に行く自由、居たくない所を離れる自由を行使できないもどかしさ。宗教関係のこと、集まりへの参加、お参り、自分の意欲の湧かないものに連れだされることが本当に嫌だ。泣くほど嫌だ。以前抗ったら家を追い出されたので、今は諸事情の為おとなしくしている。父と母が考えていることが分かる。分かりあえないことも分かる。この家にいる限り、声を大にして言うことはできない。

いつか私はこう、っていうものを打ち立てた時に“それ”を見せられるのだと思う。